前川進介の政治日記
靴下の色は白!子どもの自主性を高めきれない丹波市教育の問題の本質
丹波市議会議員選挙に出る前から訴えかけている私の目標は、「丹波市を、自立的に自分らしく生きていく人たちであふれる町にすること」です。
それを実現する具体的な施策の一丁目一番地が「子育て支援」だと考えているので、選挙を戦ううえでも「子育て支援」を訴えてきました。
そして、自立的に自分らしく生きるための一丁目二番地あたりに該当するのが「学校教育」だと私は考えています。だって人格形成が成される子どもの頃は、家庭を除くと最も多くの時間を学校で過ごすわけですから、学校で行われる教育がその子の生涯に与える影響は計り知れません。
そんなわけで私は議員として丹波市の子育て支援や学校教育についての施策を注視していて、3月の一般質問ではそんな学校教育の在り方について問いました。
1. 3月一般質問「丹波市教育方針の実現に向けて」
・私の一問目
先に行われた3月議会で、「令和3年度丹波市教育方針」が示されました。このリンク先を読んでいただけるとおわかりいただけると思うのですが、そこにはとても理想的な教育方針が掲げられています。それがあまりにも現実とのギャップがあるように感じられたので、3月の一般質問では下記の内容で岸田教育長に問いました。
令和3年度丹波市教育方針はとても立派な内容でした!ぜひ実現していただきたいと心から願っています!これは本音です!
ただ現実に目を向けた時、現状ではそこまでできていないからこそ、向かうべき方向性を示されたのだとも思います。
そこで、表明された理想的な方針が実現できている状態を100点として、丹波市学校教育の現状を教育長が自己採点されたら何点になりますか?
また何が足りていないのか、そしてその足りていないものを補うために、具体的にどのようなマネジメントを行うおつもりなんでしょうか?
「全員に何かを教える」から「一人ひとりの学びを伴走する」への転換は、現場の教員からすると「天動説」から「地動説」に変わるほどの衝撃があると考えています。
仕組みを構築しても実際に現場を動かすのは教員です。教員一人ひとりの根本的な考え方が変わらないと実現は難しいと考えています。
またそれだけの大きく急激な変化には組織や人間関係に歪みが伴うことも懸念されますし、その歪みをいかにマネジメントするかがトップには求められます。
言うは易し。行うは難し。
現状の教育現実をどのようにマネジメントして、令和3年度丹波市教育方針を実現されようと考えておられるのか、その手法を具体的にお聞かせください。
・教育長の一答目
そしてこの質問に対しての岸田教育長の返答は、
●自己採点は?
→50点
●何が足りていないのか?(50点の理由)
・まだまだ教師主導の場面が多く、子ども一人ひとりが能力を発揮する場面が用意されていない
・ICTの効果的な活用ができていない
→授業の中に(児童・生徒同士の)相互作用と振り返りを入れることが大切。これまでは「子どもが何を学ぶか」を重視してきたが、これからは「どのように学ぶか」も大事にし、「聴き合い、対話し、学び合う子ども」を育む教育を推進する。
●今後どのようにマネジメントするのか?
・平成30年度から研修などしてきていて、それなりの成果は出ているが、すべての学校が同じ水準に到達するまではまだまだ時間がかかる。
・「何かあれば教育長の私が責任を取ります。その代わり、教職員の責任は校長が取る覚悟で臨んでください」と絶えず伝えている。
ということで、ざっくり言うと、
主体的な学びになるようこれまで研修等を行ってきたけど現状では50点で、実現にはまだまだ時間がかかる。教育長、校長が責任を取るマネジメントで教育改革を推進した
ということかな?
私の一問目と教育長の一答目はこのようなやりとりでした。
2. 「ボトムアップ」が機能しないチームの本質
・本質がわからないと机上の空論になることも
岸田教育長は他所で成功したシステムなどを丹波市に積極的に取り入れようとされていて、教育改革が喫緊の課題である現在においてそれは素晴らしいことだと感じています。そのおかげで実際にICTの活用や授業中に対話の時間を設けるなどの主体性を高めるシステムは徐々に改善されてきています。
一方で、私はちょっと違った考え方も持っています。他所で成功したシステムを移植するのもいいのですが、丹波市の教育現場に今あるものを自分たちの手や頭を使ってカスタマイズし、その過程の中で教員が子どもたちの主体性を引き出すような在り方に変わっていくマネジメントにも注力した方が良いのではないかと考えているのです。
なぜなら(これは教育業界に限った話ではないですが)、他所で生まれた成功事例を持ち込んでトップダウンで落とそうとしても、それを扱う現場の職員が本質を理解できず、時として拒絶反応まで起こしてしまい、結局形式だけの机上の空論で終わってしまうことが多いからです。
・部活動で流行った「ボトムアップ」
例えば教育業界で言うと、ひと昔前から部活動での「ボトムアップ」が流行りだしました。これは監督がトップダウンで指示するのではなく、部員一人ひとりが考え行動する組織マネジメント形態のことで、2014年に柏原高校サッカー部が36年ぶりに兵庫県ベスト8に入ったのも、当時の金監督がこの「ボトムアップ」を導入してのことでした。
そうしてボトムアップのチームが結果を出すと、「ボトムアップで勝てるチームを作りたい」とう指導者が増え、ボトムアップはどんどん流行りだしました。
しかし、それらのチームの全てが良い結果を出したわけではありません。結果を残せなかったチームの中には、結局トップダウンに逆戻りするチームすら出てきました。
なぜそんな事態に陥るかというと、指導者自身がボトムアップが機能する本質を理解しておらず、目先の勝利のために表面的・形式的に導入しただけだからです。流行りに乗っかっただけ、みたいな。
そんな中で柏原高校サッカー部はなぜボトムアップが機能したのか。当時チームの監督だった金さんは在日韓国人で、度重なる結婚差別を受けてきました。「韓国人だから結婚させない」という理由になっていない理由を並べる相手に憤りを感じながらも、彼は「差別をする人間は自分の頭で考えていない」という共通点を見出しました。
そこで、学校教育を通して自分の頭で考える人を増やし、世の中から差別を無くそうと考えたのです。その後彼は様々な研究を重ね、チームにボトムアップを導入しました。ボトムアップはメンバー一人ひとりが自分の頭で考え行動しやすい組織体制だったからです。
つまり、ボトムアップを導入した目的は目先の勝ちにこだわるためでもなければ流行りに乗るためでもなく、自分の頭で考える人材育成のためだったのです。
このように動機が明確な人はブレません。メンバー自らがチームの規則や練習メニューを考えるのはもちろん、大会のスタメンを決めたりメンバー交代を指示したりするのも監督ではなくメンバーでした。そうして徹底的に自分たちの頭で考えさせる環境を金監督が創り上げたからこそ、結果的に試合に勝てるようになったし、学業の成績も上がるようになったのです。
・失敗の本質
このボトムアップが機能する構造を理解できていない指導者がボトムアップを導入したチームは、一人ひとりに考えさせる問いや時間を与えなかったり、またメンバーが思ったことを言い出しにくそうな雰囲気を創ってしまったりで、思うように自主性を引き出せません。そして目先の勝利が得られない指導者の焦りから、結局トップダウンに戻してしまうのです。
そうやってボトムアップをうまく機能させることができなかった問題の本質は、そもそも指導者のマインドにトップダウン根性が染み付いていたことだと私は考えています(他にもあるかもしれませんけど)。指導者のマインドがトップダウンだと、どうしても一人ひとりに考えさせる場を創れなかったり、またメンバーが思ったことを言い出しにくそうな雰囲気を創ってしまったりするのです。
・問題解決の落とし穴 〜目に見える表面的な現象に囚われるな〜
ここで注意しないとならないのは、その問題を解決する際に、表面的に見えている現象だけに着目し、
「一人ひとりに考えさせる問いや時間を与えましょう!」
「メンバーが思ったことを言い出しやすい雰囲気を作りましょう!」
という本質を外した場当たり的な対応をしてしまうことです。
元々「指導者に、上位下達を当たり前とするトップダウン根性がある」ことが問題の本質で、その本質があるからこそ「指導者が答えを決め、それに従わせようとする」態度が導かれ、その具体事例として「一人ひとりに考えさせる問いや時間を与えない」行動や、「指導者と異なる意見には不快になり、メンバーが意見を言い出しにくい雰囲気を創る」振る舞いが発生しているだけなのです。
だから表面的な現象に気を取られるんじゃなくて、目には見えない問題の本質が何かを探るクセをつけておかないと、いつまで経っても場当たり的な対応になってしまいます。
3. 教育改革が50点止まりの本質は何か?
さて、話を丹波市の教育に戻します。
対話の時間を作るのも、ICTを活用するのも、子どもたちの自主性を引き出すための手法です。だから教員はそれらの手法を使って、なんとかして子どもたちの自主性を高めようとしているはずなんですが、現状で50点とのことです。50点の理由を教育長は
・まだまだ教師主導の場面が多く、子ども一人ひとりが能力を発揮する場面が用意されていないから
・ICTの効果的な活用ができていないから
と語られました。
この問題を解決するうえで注意しなければならないのは、先ほどの「ボトムアップ」と同様に、
「教師主導ではなく子ども一人ひとりが能力を発揮する場面を用意します!」
「ICTの効果的な活用を進めます!」
という考え方に陥らないことです。これはあくまでも問題の本質から導き出された表面的な現象ですから、問題を解決するうえでは枝葉末節の話。そこではなく、まず本質を捉えるのです。本質さえ変われば、目に見える現象は勝手に変化していきますから。
ではこの問題の本質は何かというと、私が考えるに先ほどの「ボトムアップ」と同じで、「教員に、上位下達を当たり前とするトップダウン根性がある」からだと思います。さらにそれを歴史的な観点から考えると、江戸幕府が推奨して広く普及した「朱子学」が元凶だと思いますが、まぁそれはまた別の機会に。
そんなわけで、私は問題の本質を「教員に、上位下達を当たり前とするトップダウン根性があること」と捉えていて、これを改革していくことは本当に大変だと考えているので、
「全員に何かを教える」から「一人ひとりの学びを伴走する」への転換は、現場の教員からすると「天動説」から「地動説」に変わるほどの衝撃があると考えています。
仕組みを構築しても実際に現場を動かすのは教員です。教員一人ひとりの根本的な考え方が変わらないと実現は難しいと考えています。
と、教員の内面の変化こそが大切だと一問目から訴えておったわけです。
しかしその教員の内面変容の促進について教育長からは、「何かあれば教育長・校長が責任を取る」ということ以外に具体的なアプローチの話は出てこず、業を煮やした私は再質問を行いました。
4. 和田中学校の靴下の色を白に縛る校則
・再質問の内容
ここで予め用意していた「和田中学校 入学のしおり」を読み上げました。そのしおりは所謂「ツーブロック」の髪型の禁止や、靴下は白地にワンポイントまでと色の指定などのルールが書かれており、その内容に不満を抱かれた同校区の保護者から預かったものです。
まず教育長はこの和田中の校則の件は承知していないとのことだったので、これに関する市民の不満は初めて教育長の耳に入ったのでしょう。
私から教育長への再質問を要約すると、
「ツーブロックの禁止や下着の色の指定というのは合理的な理由がよくわからないルールだ。 白い靴下は汚れが目立ちやすくて洗濯に困る保護者もいる。そういう合理性に欠けるルールの押し付けに従わなければならいというところから子どもたちは思考停止に陥るんだ。 とにかく靴下の色にまで過干渉に関わることは、どうしても子どもたちに従順なマインドを醸成してしまう。 だから校則の見直しは主体的な学びにつながると思うし、教員の意識改革も期待できる。教員が自分の頭で考えるキッカケづくりとしても校則を改めてみないか、という投げかけを教育長から管理職にしてみてはどうか?」
という内容でした。自主性を育むとか言いながら、靴下の色まで過干渉に制限するなんて、「アクセル踏み込めー!でも実は裏でブレーキかけてるんやけどね〜(笑)」みたいなチグハグさ。進みたいのか止めてたいのか、一体何がしたいのやら。
・再質問したのは、同根の問題だから
私がなぜこの内容を再質問したかというと、この靴下の色問題は丹波市の教育改革が50点であることと同根の問題だと考えているからです。
先程の
・まだまだ教師主導の場面が多く、子ども一人ひとりが能力を発揮する場面が用意されていない
・ICTの効果的な活用ができていない
ことと、
・靴下は白地でなければならない
という「ブラック校則」は、いずれも「教員に、上位下達を当たり前とするトップダウン根性がある」という本質に帰結すると考えているわけです。
・教員に当たり前を疑って意識を改革してもらうチャンス
さらに、これまで恐らく何十年も当たり前のように存在していたブラック校則を疑い、その是非を問うことは、当たり前を疑う教員の意識改革に繋がるのではないかと考えました。しかもけっこうな額の税金を投入しなければならないICTの導入と比べ、靴下の色指定を変えるのにコストなんてほとんどかかりません(笑) こうしてお金をかけなくても教員の意識改革はできるのではないでしょうか。
これは私の経験から言えることですが、トップが他所から理想論やシステムを持ち込んでトップダウンで落とすだけでは、組織の人間からするとその理想と目の前現実を埋める手立てがわからず、結局机上の空論で終わってしまうことが多くあります。
だからまずは目の前の現実と向き合い、それを理想の方向性に修正していくことに重点を置いて、理想と現実(抽象と具体)を結びつけることで現場の教職員の意識変容を促すべきだと私は考えています。
「なぜ白じゃなきゃダメなんだろうか?」
「自主性を重んじるのにこの縛りは必要なのだろうか?」
と教員が目の前の現実と目指すべき方向の整合性を取り始めれば、意識改革は始まっています。
靴下の色なんてほんの些細な変化かもしれませんが、それを足掛かりにして最終的に「教員に、上位下達を当たり前とするトップダウン根性がある」という本質が改善されれば、それと同根のありとあらゆる諸問題(ICTの活用、対話時間の確保など)は勝手に解決していくわけです。
・本質が改善されればICTは要らない?
また、「教員に、上位下達を当たり前とするトップダウン根性がある」という本質が改善され、子どもの主体性を育む真髄が掴めたなら、例えばICTの活用なんてしなくても良いのかもしれません。これはただの手段の一つですから、子どもたちの主体性を高めるための代替手段が見つかったのであれば、ICTに固執する必要なんてないのです。実際にこれまでインターネットが普及していなかった時代は当然ながらICTなんてあるはずもなく、でもそんな時代でも子どもの主体性を育む教育をしていた教育者たちはいたのですから。
逆に「ICTさえ活用していればそれでいい」という考え方が蔓延ると本末転倒。それは手段の目的化です。
だから
・まだまだ教師主導の場面が多く、子ども一人ひとりが能力を発揮する場面が用意されていない
・ICTの効果的な活用ができていない
はあくまでも表面的な話であって、そこを改善することばかりに目が行ってしまうと、本質を見誤った場当たり的な対応になってしまうのです。それよりも主体性を育む本質を教員がどれだけ会得できているか、そっちが大切。
5. 学期途中で校則が変わる「前例」の誕生!
・そして靴下は白以外の選択肢が増えた
私の再質問に対する教育長からの返答は
「おっしゃる通り過干渉は子どもの自立を妨げるのでよくない。 子どもたちに任せることが大事。校則は教育委員会ではなく学校が決めるのが原則で、その校則が本当に必要かどうか、見直すべきことは見直す必要があると管理職に話をしている。 管理職が自分の頭で考えることが大事で、校長が安心していろんな改革に手を出せるように教育長として支援していく。 だからそれぞれの学校に合った校則を作ってくれるように学校も動いてくれると思う。」
とのことで、校則を改めることに教育長としては前向きな姿勢でした。
そして4月の終わり頃、件の保護者から連絡がきました。5月から靴下の白色指定が解かれ、黒色も可となったと!歓喜!(他の色も可にしときゃいいのにとは思ったけど・・)
・民主主義では、ルールは皆で作って運用し、必要に応じて修正するもの
生徒会からの要望もあり、新年度が始まってすぐに校則が変わったようです。生徒自らがそのような疑問を持ち、学校側に変更を申し入れることは生徒の主体性を高め、さらに自分たちで考えて行動すればルールだって変えられるという民主主義の成功体験を得られるチャンスにもなります。
前回のブログでも書きましたが、ルールは皆で作って運用し、時代や環境の変化に応じて修正するものであり、永遠に従い続けるものではありません。それは学校とて同じことです。世の中にはまだまだ「ブラック校則」が多く残っていますが、そんな子どもの成長を阻害する時代錯誤な校則は早いとこ無くしてしまえばいいと思っています。もう平成も終わって令和の時代ですからね、いつまで昭和の悪習を引っ張るのか。
また今回のように新学年が始まってすぐでの変更は異例(※下記R3.06.01注釈追記)のことらしく、これで良い「前例」ができたように思います。だって、「前例」が重要視される業界ですからね。合理的でない校則なら年度の途中でも変更できたという実績が誕生したわけですから、この「前例」を足掛かりに今後もどんどん変革を起こしていただければと願うばかりです。
市民の皆さんにおかれましては、子育てに弊害となるようなブラック校則に不満や不安を感じられましたら、ぜひ学校や教育委員会にその旨伝えられてみてください。それでも状況が変わらないようでしたら、私までご連絡いただければできる範囲内で対処いたします。
080-3087-4720
maegawa.shinsuke.3@gmail.com
※R3.06.01追記
丹波市教育委員会学校教育課課長との会話の中で、年度が始まってすぐの変更を「異例」と表現されたのでブログに書きましたが、このブログを読まれた市民から、年度途中の変更は前例があるから和田中の件は前例の誕生ではないという指摘を受けたので追記します。なんでも柏原中学校では靴下や靴の色を白以外でも可とする校則の改正について、生徒が生徒会に提案し、生徒総会の議題とし、投票の結果可決されたようです。柏原中学校はしっかり民主化されてますね!ステキ!これはもう、柏原中が「前例」を誕生させたと言えそうですね。(他の中学校がさらに先やったらごめんなさい)
6. まずは教員が楽しめなくては
・教員が環境の変化に困惑するのは自然な話
ここまで丹波市の教育改革が50点の自己採点であることと、私なりに考えるその本質について書いてきましたが、最後に一つ付け加えておきます。
採点が50点に留まっているからと言って、私は教員個人を責めるつもりはあんまりありません。それは一教員が悪いというより、これまでの学校文化が酷すぎたからです。異常なくらい人権が侵害されていて、子どもたちの主体性を引き出すなんていう観点がほとんどありませんでしたから。昔は常識だった体罰や暴力がそのわかりやすい例です。
ただその主体性を重んじない人権軽視の文化は、教員にとっても同じだったんだろうと思います。学校組織の中で上位下達があって上司の言うことには従わなければならない、自分の意見は抑えて去年と同じ前例踏襲をするべきだと、自分の頭で考えのびのび行動するような文化ではなかったのです。
そんな状態から待ったなしの教育改革が求められたら、「そんな急に自主性なんて言われても!」と、現場の教員の多くが困惑するのも自然です。
「全員に何かを教える」から「一人ひとりの学びを伴走する」へ。
「トップダウン」から「ボトムアップ」へ。
「強制」から「自主」へ。
「教える」から「引き出す」へ。
「覚える」から「考える」へ。
教員でさえ自主性に欠ける学校文化だったのに、その自主性を子どもたちから引き出せって、一体どうしたらええの!?という話を現場の教員からちらほら聞きます。だからこれらの教育方針の転換は、「天動説」から「地動説」に変わるほどの衝撃なんだと思うわけです。
変化というものは多くの人々に不快感を与えます。この激動の波に耐えることを考えると暗い気持ちになっちゃうから、どうしてもその変化に対して受け身になりがち。でもだからと言って、例えば
「文科省の方針で自主性を高めなければならないからそうしている」
「言われた通りにICT活用していますー。」
「言われた通りに対話を導入していますー。」
という態度で取り組んでしまったら、表面的には丹波市教育方針に則っていたとしても、本質的に自主性を高める教育を提供できるか疑問だし、それでは教わる子どもたちが気の毒です。
・教員こそ自立的に生きて人生を楽しんでいただきたい
だからその「負のスパイラル」を「正のスパイラル」に変えるべく、いっそのことその変化の波を乗りこなして楽しむ感覚が大切なんじゃないかと考えます。
つまり、これを機会に教員自身が「強制」の呪縛から解き放たれ、自ら考え人生を楽しむこと。自主的に生きる快感を味わった人は、その快感を他者にも伝播させようとするものです。だからまずは教員がその快感を体験すれば、子どもたちにもその良さを知ってもらいたいという動機が生まれるでしょう。そうすると教育現場で子どもたちの自主性を育むためにアレやコレやと創意工夫が生まれ、質の高い教育が実現します。
とにかくまずは教員自身が前例なんか踏襲せずに自分の頭で考え、行動することの楽しさを感じることだと思います。そのために岸田教育長は「何かあれば教育長の私が責任を取ります。その代わり、教職員の責任は校長が取る覚悟で臨んでください」と絶えず伝えていらっしゃったのでしょうから。
そしてこの責任を取るトップの在り方は、明日6月1日から新たに教育長に就任される片山さんにも期待しているところです。