前川進介の政治日記

議会報告 2021.5.6

「丹波市立丹波悠遊の森」指定管理についての問題とその本質

※この記事は、この「前川進介オフィシャルサイト」が立ち上がる前の令和3年1月6日にFacebookの前川進介個人アカウントで投稿した内容です。関連するブログ記事の参照元として使うこともあり、ここに再掲します。


こんにちは。

皆さんコロナ禍のお正月をいかが過ごされましたか?私はコロナなんか日本人にとっては厄介なただの風邪なんちゃうかと疑っていますが、恒例の岡山県にある妻の実家に行くことを今年は諦めて丹波に篭っておりました。昼間は子どもと遊ぶか仕事をするかで、夜は黒霧島を浴びながら人間社会について妻と対話する日々です。

さて、そんなわけで我が家はお正月モードでもなかったので、新年早々から議会の話題を作文していました。(以前の投稿で年末年始に4つの話題を投稿する予定だと宣言しておりましたが、1つの投稿でもかなり長い文章になったので、残り3つは公開する手段や時期を改めることにしました。ご了承ください。)
 
今日投稿するのは12月議会の議案第126号「丹波市立丹波悠遊の森条例の一部を改正する条例の制定について」と128号の「丹波市立丹波悠遊の森に係る指定管理者の指定について」の話題です。丹波市立丹波悠遊の森を運営する企業を選定する内容もスケジュールも甚だおかしかった件です。
 
丹波市役所がこんなひどい対応では、管理してくれる(株)丹波悠遊の森協会に対してあまりにも失礼じゃないかと思ったので、今回の議会の質疑では一番熱が入りましたね。
 
この投稿では今回表面化した問題の本質についても、自分なりに考察しています。私からするとその問題の本質を解決することこそが大切だと思っているので、一体どんな内容なのか、皆さんぜひご覧ください(長いけどw)。

では、その内容について説明していきます。


⑴指定管理契約のスケジュールも手順も不適切

⑴―①業者選定後に料金を改定すると、適切な指定管理料にならないから不適切

まず今回の指定管理業者の選定にあたって、12月議会に2つの議案が同時に上程されました。


・第126号「丹波市立丹波悠遊の森条例の一部を改正する条例の制定について」
・第128号「丹波市立丹波悠遊の森に係る指定管理者の指定について」


第126号は丹波市立丹波悠遊の森(以下「悠遊の森」)の利用料金を上げてもいいですか?(例:ログハウス4人で20,950円→27,230円)という議案です。

そして第128号は、令和3年4月1日から5年間の指定管理業者を(株)丹波悠遊の森協会にしようと思ってるんですけど、それでいいですよね?っていう議案です。


初めてこの議案を見た時、私は一瞬モヤっとしたんですが、次の瞬間、隣にお掛けの同じ会派ニュートラルの奥村さんが「こんなもんおかしいわ。順番がおかしい。先に126通してからやないと128は出されへんのや」と小声で囁いてくださいました。さすがベテラン議員。彼の頭の中はあっという間に「モヤ」が吹き飛んで「快晴」のご様子。同じ会派の議員として、普段から色々勉強させてもらっています。


はい、これは行政手続きとして問題ありなんです。


指定管理制度の場合、丹波市から管理者に「指定管理料」なるお金を支払うわけですが、これは施設を管理してくれる会社が健全な管理をするのに必要な分だけを払うことになっています。

だから必要な指定管理料を算出せねばならんのですが、予想される売上がいくらかを見込めなければ、指定管理料の計算ができません。


小学校の算数で習ったように、(売上)=(単価)×(販売数量)ですから、この計算には利用料単価が必要です。マサ子さんがみかんを10個買って合計いくらになるのかは、みかんの単価が30円だったら合計300円だし、50円だったら合計500円です。


だから利用料単価が決まらなければ売上なんて計算できないはずなんですが、今回はやっちゃってるんですよ。利用料単価が定まらないまま(=議案126号の料金の条例改正をしないまま)、指定管理料の上限を年間564.5万円と決めて業者も選定しちゃったけどいいよね?(議案128号)という話が上程されたのです。



実際に、公募をかけた際の「丹波市立丹波悠遊の森指定管理者募集要項」には


>丹波市が支払う指定管理料は、(中略)丹波市立丹波悠遊の森の管理運営に要する経費の見込み額から利用料金収入の見込み額を差し引いた額を、毎年度の予算の範囲内において、指定管理者に指定管理料として支払う。



と記載してあるんですけど、その「利用料金収入の見込み額」(=売上)って、単価が決まってないから試算が無理でしょう。そんな中で必要管理料を564.5万円て、どうやって積み上げたん?



だから、本来であれば何ヶ月も前に第126号の料金変更の条例改正をしておいて、行政はその新料金から適切な指定管理料を算定し、それ以降にその算定した指定管理料を提示したうえで公募をかけ業者を選定して、第128号を上程しなきゃならんかったのです。



そのスケジュールの遅れを取り戻すべく(?)、指定管理者の公募にあたってはこんな留意事項が掲載されていました。

>応募者は、応募書類を作成するにあたり、丹波市立悠遊の森条例に記載されている利用料金を超えて提案することができる。ただし、合理性が認められる範囲内とする。また合理性が認められた場合は、条例改正の手続きを行う。


いやいやいやいや、業者選定の後に利用料単価を変えることを想定しておいて、どういう根拠で年間564.5万円という指定管理料を提示したのよ!



⑴―②点と点が線で結ばれた感覚

12月18日の本会議でこの議案の説明を受けた時、スケジュールや手順が滅茶苦茶やなと思ったのと同時に、私の頭の中で点と点が線で結ばれた感覚がありました。というのも、この「悠遊の森」の管理を頑張ってる花ちゃんから「丹波市役所がなかなか動いてくれないんすよ・・」という話を以前より耳にしていたからです。


花ちゃんはこの「悠遊の森」に訪れたことがキッカケで大阪から丹波市に移住を決め、私が立ち上げたIターン専用シェアハウスの第二住人となった経緯があります。今は(株)丹波悠遊の森協会の一員として「悠遊の森」の管理をしながら、自らも事業を立ち上げて地域に密着した活動をしています。そんな花ちゃんとは気が合うことが多々合って、先の選挙でも私の応援をしてくれました。


選挙の応援をしてくれたから今回の案件には市議会議員として恩返しする!というわけではなく、どなたに投票されてようが市民がお困りであれば快く対応しますが、でもやっぱり応援してくれた人なら余計に熱が入るのが人情ってものでしょうか。


早速花ちゃんに連絡して、12/21に「悠遊の森」に伺い、花ちゃんたち(株)丹波悠遊の森協会の方々にこれまでの経緯をヒアリングしてきました。

そこでは驚きの事実が。。

悠遊の森で活躍中のIターン花ちゃん
悠遊の森で活躍中のIターン花田匡平氏(花ちゃん)




⑴―③そもそも条例改正は5年前からの訴えこの5年間は(株)丹波悠遊の森協会が指定管理業者として管理していた(5年契約)わけなんですが、5年前にこの施設の指定管理を請け負った時から、利用料単価の条例改正を丹波市に訴えてこられたようです。


もうちょっと遡ってことの経緯を説明すると、元々この「悠遊の森」は丹波市に合併する前の旧柏原町が持っていた施設で、管理運営も旧柏原町でした。その後合併して丹波市の所有になる際に、管理運営は民間に任せようと丹波市が「悠遊の森」の地元である柏原町大新屋自治会に依頼し、大新屋の住民が株主となって立ち上げた(株)丹波悠遊の森協会が管理運営を行うことになりました。


運営当初は行政時代の運営の色が抜けず、業績は下がる一方だったようですが、今から8年ほど前にいよいよヤバいということで、民間目線の経営改革を行い「悠遊の森」は自助努力で業績をV字回復させました。


そんな(株)丹波悠遊の森協会は、5年前にここの指定管理業務を請け負った当初から、利用料単価を上げる条例改正を丹波市役所に懇願していました。それは、


・利用料単価を上げても十分集客できる改革を行なってきた

・その単価さえ上げてもらえたら、税金で指定管理料を投入しなくても自立的に運営ができる


という考えからでした。それまで行政時代の運営の色が抜けず赤字続きだった施設の管理を地域住民の努力よって回復させ、さらに指定管理料を不要として無駄な税金を投入すべきでない、という提案までを行ってこられたわけです。


にも関わらず、「その条例改正はたいへんだから」と先延ばしにし続けてきたのが丹波市役所。



⑴―④消費増税分に関しては行政が税金で負担(笑)

さらに、この利用料単価は消費税込みなんですよ。だから消費税が10%に増税されたにも関わらず利用料単価を据え置きにするということは、それつまり実質の値下げなんですよね。利用料単価を上げるべくお願いしている中で実質値下げ。


さすがにその2%の差額分は丹波市が負担していたようですけど、でも本来であれば利用者(消費者)が負担すべき消費税を、行政が我々市民の税金で肩代わりして国に納めていたわけでしょ?それって適切な税金の使い方なんでしょうか?

さっさと条例改正していればそんな無駄な税金を使わずに済んだろうに。


⑴―⑤全ての議案を9月議会で終わらせるのが「民間目線」のスケジュール

そしてこのタイミングで議案第126号と128号が上程されたことの問題は、他にもあります。


「悠遊の森」は半年前から予約が取れるシステムです。だから例えば「悠遊の森」でヒアリングした2020年12月21日だと、2021年の5月の予約は埋まり始めているんです。


しかし!2021年4月1日以降の利用料単価も決まってなければ、そもそも(株)丹波悠遊の森協会が管理者として運営するかどうかも決まっていない状態だから、予約を受け付けるわけにいかないんですよね。


常連の利用者からは「もうこのキャンプ場は閉じるんですか?」なんていう声も出てきてスタッフはそれにも対応しなきゃならないし、現実問題として顧客が他の施設に流れてしまう機会損失が生じていると考えられます。


またこのコロナ禍で情勢が不安定な中で従業員は仕事が続けられるかどうかもわからない、経営者は会社の方向性すら説明することができない、そんな状態だったわけです。


何から何まで丹波市役所の対応は後手でした。


その後手の対応に関して当局からのエクスキューズな説明によると、丹波市の指定管理制度のガイドラインには指定管理者の指定については12月議会に上程することとなっているから、とのことでしたが、そんな杓子定規な対応でいいのでしょうか?



予約が半年前から取れるシステムで指定管理者を公募するのであればギリギリでもこのスケジュールですよ↓



5月までに適正な利用料単価を算出する

→6月議会で利用料単価変更の条例改正(第126号)

→6月に変更後の単価で適正な指定管理料の算出を行う

→7〜8月にその適正な管理料で公募をかけて指定管理者を選定する

→9月議会に指定管理者の指定についての議案を上程(第128号)

→10月1日から2021年4月1日以降の予約を変更後の利用料単価で受け付ける



仕事が半年は遅いです。


私は民間の経験しかないから民間目線で物事を見ていますが、民間の感覚だとこのスケジュールでギリギリじゃないですか?


それが行政の感覚だとガイドライン通りに12月議会に第128号の上程なんですって。第126号までもが12月議会に上程というのは論外ですが、第128号を12月議会に上程することが当たり前という感覚に驚きます。これは機会損失に繋がる行為だから、そんなことしていては会社経営なんてやってられません。事業運営において「民間目線」が足りないと言わざるを得ないですね。


私は市議選に出馬するにあたり、「市民目線、民間目線の行政改革」も銘打ってきました。早速、この「悠遊の森」の事業運営において「民間目線」の重要性を説く機会に出くわしました。こんなことがいろんな場面で起きてるんでしょうか。だとすれば、丹波市役所は伸び代がいっぱい!お力になれそうで自己効力感に満たされそうです😆


⑵そもそも特例から外す必要を感じない

⑵―①会社の成り立ちと実績

さて、この指定管理者の選定に際しては「公募による選定」と「特例による選定」の2パターンの選定方法があり、今回は「公募による選定」を選択されたわけですが、果たしてその手段は妥当だったんでしょうか?


まずは会社の成り立ちからおさらいします。「悠遊の森」の運営を行うため丹波市役所が地元柏原町大新屋自治会にお願いをして設立してもらった会社が(株)丹波悠遊の森協会でした。


そして特例による選定が行われるのは次の要件などを満たす必要があって、


❶施設の設置目的及び利用が地域住民に限定されるなど、地域の住民グループによる管理が効果的であると考えられる場合

❷施設利用者に対し極めて高度の専門性を要する場合

❸利用者等との関係性の維持が極めて重要である場合



5年前はこれら(のいくつか)が認められ、公募ではなく「特例による選定」で指定管理者が決められました。
そしてこの5年間で業績は安定してきました。さらに自立したいから利用料単価さえ上げてもらえたら指定管理料は要らないと言っておられる。もう最高の管理者じゃないですか。


それが今回は「特例による選定」ではなくて、「公募による選定」に変えられました。なんで?って思いません?そこで議会の質疑の中でその理由を尋ねると、


「新たに京都大呂ガーデンテラスの施設(福知山市のキャンプ場)も管理されるようになったから」


と担当課長は答えられたのですが、それは特例から外れる理由になる合理的な説明にはなりえません。さて、一体どの項目(❶❷❸)が外れたというのでしょう?(そもそも経営難にあえぐ京都大呂ガーデンテラスからの相談を受けて(株)丹波悠々の森協会を紹介したのは丹波市役所やのに、何そのババ抜き感w)



さらに議案に出された「指定管理者選定の理由」には、

(前略)当施設の管理等については、都市部とのネットワークや地元の地域活性化にかかる複数の専門分野をとりまとめ、運営を行わなければならないため、運営能力を持つ(株)丹波悠遊の森協会が行うことで、効果的な管理及び運営が期待できることから、指定管理者の候補者に選定した。


って書いてあるんですよ(笑) じゃぁハナから「特例による選定」でよかったんじゃないの!?


会社の成り立ちやその後の高い管理能力、それに自立心を考慮すると、これは「特例による選定」が望ましいと考えますけどね。


ちなみに担当課長の後から部長が「あくまでも指定管理者選定の原則は公募だから」と論点を変えられたので、それ以上は突っ込みませんでしたが、そうなると今回の議案に出された他の指定管理者の選定、例えば122号のひかみ四季菜館→丹波とれとれ市、123号の道の駅あおがき→(株)おいでな青垣、123号のおばあちゃんの里→丹波ふるさと振興(株)、129号ウッディプラザ山の駅→丹波市商工会、などが特例による選定で業者を決めていることとの整合性が取れていないようにも感じます。



⑵―②「別にあなたじゃなくてもいいですよ」と言われるとやる気が削がれる

なんでこんなことを主張するかと言うと、私にも経験があるんです。他市との契約ですけど、特例による選定から公募に変えられた経験が。


その自治体は全国的に見ても初めての事業をやろうという意思があり、そこでなんとか力を貸して欲しいと頼まれたので私が企画立案し、その事業運営の契約をすることになりました。ところがいざ契約する段になって、うちの会社との契約実績がなくて議会で可決されにくいからという理由で、プロポーザル(提案)型の公募になったんです。私が企画立案した事業に、私が提案するんですよ(笑)。結局うちと契約する結果になったんですけど(そりゃそうw)、まずそっちから頼んでおいてなんじゃこりゃ?って思いました。


そして初年度で事業の実績を作ったから2年目は特例による選定で随意契約となったんですが、3年目になってまた最近議会が厳しいからプロポーザルによる公募にしたい、と。


しかし公募というのはね、言ってみれば「別にあなたじゃなくてもいいですよ」っていう意思表示なんですよ。特例による選定は「あなたじゃなきゃダメ」だからこちらもやる気が出るわけですが、あなたじゃなくてもいいと言われたら、じゃぁ誰か他の人にやってもらったら?って投げやりな気にもなるじゃないですか。そっちから頼んでおいて、やっぱり他の人でもいいんだけど?みたいな対応って、やっぱりやる気が削がれます。


だから、私は苦渋の決断でしたがその公募には応募せず、お断りしました。そのお仕事は市役所の担当者ととても密に連絡を取り合って二人三脚で回していたようなものなので、担当者には申し訳ない思いをさせてしまったと感じましたが、そのバックにある行政組織や議会の在り方に問題を感じたので、私の思いをご理解いただきました。


結局その公募は他にも応募がなく不調で終わり、その事業の大部分を市役所の担当職員で対応することになり(たいへん💦)、結果的に役所職員の能力が上がり自立が促されたんですけど(笑)


丹波市役所と(株)丹波悠遊の森協会の関係も同じです。丹波市役所から頼んでおいて、(株)丹波悠遊の森協会が好調な実績を上げているにも関わらず「あなたじゃなくてもいいんのよ」なんて言うことは、「どうしても付き合ってほしい!」って告白してきた女の子とちゃんとお付き合いしていたのに、突然「他の男と付き合うことも考えてるねん」って言われるのと同じですよ。


そういう彼女にフラれたような感覚を味わせるべき相手なのか、というのを丹波市役所はもっと繊細に考えた方がいいと思いますね。


まぁ結果的に公募による選定になってもいいとは思うんです。公平性の観点も大事だから。でもそれにしたってもっと(株)丹波悠々の森協会と連絡を密に取り合って、先方に納得してもらう努力をすべきだったと思いますよ。この5年間彼氏はめっちゃ頑張ってたやんやからもうちょっと感謝を伝えなはれ、って話。


だから今回の質疑では、その公募に至る過程のコミュニケーション不足についても言及しておきました。もっと関わる人の気持ちを考えてほしい、と。


⑶市民が自立を訴えてきたのに行政がそれを阻害している、この大問題の本質と対応策を考える

⑶―①人生において「自立」が持つ意味を、歴史の視点も踏まえて考えてみる

さて、ここまでは第126号と第128号の議案がスケジュールも方法も甚だおかしかったその内容について語ってきたわけですが、今回の一連の話で私が一番問題に感じているのは、丹波市民(が立ち上げた会社)が自立的に活動しようとしているのに、丹波市役所がその足を引っ張って自立を阻害してきたことです。


この3章では、なぜそのように行政が市民の自立を阻害するような事態になったのか、その問題の本質について考えたいと思います。


私は常々「人も組織も自立が大切だ」と訴えていますが、それは


・自立的に生きた方が能力が高まり、結果的に自由度が増し、人権が尊重されやすく豊かな人生を送れる

・そしてそういう人の集合体である組織や地域が強いコミュニティとなる


と考えているからです。


自由と責任は表裏一体。責任を取れる範疇でのみ人は自由を謳歌できます(福祉の世界ではまた別の観点も必要だと思います)。


自立すればそれだけ取らなきゃならない責任の範囲が大きくなるので、それは避けたいところかもしれませんが、でもその分自由の範囲も大きくなるのは確かです。


自分の思いと行動を一致させる人生を歩みたいなら、やはり自立的な態度は必須なんだと考えています。


そうして何者かに依存せず生きていこうという態度があるからこそ、個人のスキルが磨かれていくもんだとも思います。


少なくとも私の場合はそうでした。何かに依存できてしまっている間はどこか他人任せなところがあって必死のパッチになりにくい性格で😅 過去を振り返っても会社に依存していたサラリーマン時代は成長が鈍かったです。


しかもその反面、会社に対しての愚痴は多かったです。だって、自分が思うようにさせてもらえないんだから。当たり前だけど組織に従わないとならないわけでしょ。自分の思いと行動が一致しないし、上司からは厳しく叱責される。だから「こんなんおかしい!もっと会社はこうすべき!」と幾度となく思っていました。


その鬱憤が溜まったこともあって脱サラしたわけですが、しがみつく存在がなくなると必死のパッチで学ぶようになり、さらに孤独だけど自由な環境のおかげで愚痴も減りました。


おかげでそれ相応にできることが増え、全体を見渡す意識もついてきたように思います。


これは私に限った話ではなく、人間社会の歴史を紐解いても、人々は支配下で不満が極限に達すると自らの命をかけてでも自立して自由を獲得する行動を取ってきています。


貴族と高級聖職者たちを民衆がぶっ倒したフランス革命や、イギリス本国から独立を勝ち取ったアメリカ独立戦争などがその代表例で、生来人間は従順に従うのには限界があって、支配から自由を勝ち取り、自立的に
生きたい生き物なんだと思います。


ここで大事なのは、同じ「自由」でもFreedomではなくてLibertyであること。Freedomが受け身で与えられた「自由」であるのに対して、Libertyは自らが勝ち取った「権利」とも言えましょう。


自分たちで勝ち取ったからこそ、それは自己の尊厳にも繋がります。


現代の日本では表立った国同士の戦争下にあるわけではないのでイメージしづらいかもしれませんが、一個人の生き方でLibertyを勝ち取り自立することは、人生を謳歌するためには非常に重要なことです。


ちなみに私が「自立」というテーマでオススメしたい書籍は『学問のすゝめ』です。『学問のすゝめ』は今から150年ほど前、明治時代に書かれたふるーい本ではあるんですが、今に通ずる本質的なメッセージが語られています。


その書籍の中で福沢諭吉先生が主張されたことを大雑把に言うと、


・処世術ではなく生活に役立つ実学を自分で学べ!

・自立して自分を確立しろ!

・そういう自立的な人間の集合体になった時、この国は強くなるんだ!


ということでした。


江戸時代の封建的な社会から明治維新で民主化したと言えど、それは黒船がやって来た外圧などによる形式的な「民主化」であって、自国民自らが立ち上がって行なった革命ではありませんでした。だから「民主化」したとは言え自立心は育まれておらず、国民の政府への依存体質が抜け切っていなかったんです。



(フランス国家の歌詞を見ると、その民主化に対する本気度の違いを見せつけられます)


『学問のすゝめ』は、そんな国民の依存マインドを憂いて放った、福沢諭吉先生からの自立を促すメッセージだったんですね。


こういう本質的なことは時代を越えても通ずるものがあります。


やはりこの現代社会においても、自立的に生き、マインドもスキルも高めていった人たちの集合体こそが強いコミュニティであると言えるでしょう。



⑶―②(株)丹波悠遊の森協会はLibertyを勝ち取り自立したかった

人間は極めて社会性の高い生き物ですから、100%の自立状態なんて有り得ません。しかし、その自立度を高めていくことは重要ですし、そのためには自立の向かう態度、マインドは必須です。


(株)丹波悠遊の森協会にはその自立のマインドがありました。だから経営改革を行い、(利用料単価さえ上げられたら)指定管理料なくとも運営していくだけのスキルも身につけられました。


あとは利用料単価を上げる条例改正、これだけで自立的な運営ができる、そんな次元まで成長してきたのです。


そこで丹波市役所が適切な対応が取れていれば、今頃(株)丹波悠遊の森協会はもうLibertyを勝ち取っていたはず。しかしその条例改正を5年間も先延ばしにされてきた現状があるから、今回私が議会で質疑を行なったのです。


「民間である我々の力をもっと発揮させてくれ!そしたら税金なくとも俺たちで管理運営してみせるから!なんでもっと自由にやらせてくれないの?それが指定管理制度の本筋ちゃうの!?」


そんな彼らの思いを議会で代弁してきました。


今、(株)丹波悠遊の森協会が求めているのはLibertyです。自立です。他所でよく見かける「補助」なんかではありません。


実際、指定管理料が支払われているという理由で(株)丹波悠遊の森協会は株主に配当を出せない縛りがあるようです。株式会社なのにね。


それもあって今回は条例改正してくれたら指定管理料は不要!とまで訴えているのに、なぜか年間564.5万円の指定管理料が計上され、また配当の自由が奪われました。丹波市役所は変なとこで過保護・過干渉に走るなぁ。



⑶―③問題の本質は、丹波市役所の職員が自立の尊さを味わっていないことかもしれない

さて、ではこの市民の自立を阻害している丹波市役所の問題の本質は何なんでしょうか?


これは私の推測にすぎませんが、市民の自立を阻害する問題の本質は、丹波市役所内に従順マインドが蔓延り、自分で考えて行動するという自立の尊さや豊かさなどを味わっていない職員が多いことだと考えています。


だってね、自立が大切だと頭ではわかっていても、自分自身が自立の尊さや豊かさを体験的に理解していないと市民の自立を促そうという動機がないだろうし、別に自立を阻害したって構わないじゃん、って思えても自然じゃないですか。


自分自身が体験を通して深く理解したからこそ、その境地に人を誘おう(いざなおう)とするわけだから、この「体験」という段階を踏むことが肝心ってことです。


例えばですよ、たまたま入ったラーメン屋の味が激ウマやったら、そこが少々遠い場所でも次は友人を誘ってその感動を共有したくなるじゃないですか。でもその味を体験していなかったら、食べログの評価がそれなりに高くてもその味は正味わかんないし、わざわざ友人を連れ出してまでそのラーメン屋に行く気持ちにならんでしょ?例え友だちが「行きたい!」って言い出しても、「えー、そこ遠いし。俺は近所にあるいつものラーメン屋でいいや。」みたいな気持ちになるかもしんない。それと同じことやと思うんです。


だから市民の自立を促すなら、まずは丹波市役所の職員一人ひとりが自立的に生きて、自立の尊さや豊かさなどを味わうことが必要なのではないでしょうか。あそこのラーメンは美味いらしいという見聞きした情報で分かった気になるのではなくて、実際に美味いそのラーメンを食べること!


⑶―④丹波市役所の大企業病(従順マインド)

さて、自分の頭で考えて自立的に生きようとしていない職員が多いなぁ、と私が感じるに至った具体例を出していきます。


今回の第128号をガイドライン通り12月議会に上程することが当たり前という感覚は「民間目線」の欠如だという話をしましたが、加えてこれは自分の頭で考えていない証拠でもあります。つまり、「ルールに従いすればいい」という従順なマインドでいるから、そこで思考が停止しちゃってるわけです。


さすがに国の法律ならかなり精査されていて今更変えるべき内容は少ないでしょうけど、市の条例なんて私はかなり疑ってかかっています。そもそもルールは従うものではなくて、まずは作るものです。そして時代や環境の変化に応じて修正し続けるものです。


だから職員はルールすら鵜呑みにせずに、

「なんでこんなルールになったん?」

「ほんまにこのルールで大丈夫なん?」

と批判的に捉える態度が大切です。私がよく言うてる「自分の頭で考える」というのは、この「批判的思考」であるとも言えます。


そもそも、本来学習というのは批判的思考がベースにあるんです。この批判的思考ができないと学力も理解力も上がりません。数年前に『東大読書』という書籍が流行りましたが、東大生の多くは読書に際して本に書かれている内容にさえ疑いを持ちながら読んでいるんですって。「ほんまかいな?」「なんでやねん?」とツッコミを入れながら読むからこそ、「あ、だからか。」「ほぅ、なるほど。」と理解が深まる、と。


だから文科省も教育現場においてはこの「批判的思考」を取り入れるように推奨していますが、でもなかなかそういう気運になりませんね。


これは日本の文化の影響が大きいと私は思っています。「親の言うことを聞きなさい」「先生の言うことに従いなさい」と、子どもの人権を軽視して従わせる習慣がありますから、日本は「鵜呑み」「思考停止」が定着しやすい文化です。そうやって幼少期に従う態度が定着しちゃうと、社会人になってから属する組織においてもその態度が発揮されます。事実、上司は部下を従えようとしますし、部下も上司の言う通り従うようになりますよね?


そこで私のように部下のくせに「なんでそれをするんですか?」なんて批判的な態度を取ると、

「お前は素直じゃない!言われた通りにやれ!」


と、叱られたり嫌われたりする対象となってしまいがちです。私からするとこの態度こそが素直なんですけどね、従順じゃないだけで。特に「批判」と「非難」の違いを理解していない人からは嫌われやすい印象ですね。(ちなみに最近は、批判しつつも嫌われにくい術を徐々に身につけてきました✌️)


私はいろいろ学んで経験して「嫌われる勇気」を獲得しましたが、一般的に人の心情からすると、なるべく嫌われたくないわけじゃないですか、親にも先生にも上司にも。だからとりあえず上の者の言う通りに従う人が多いんだと思うわけですが、そうやって言われた通りにするだけなら自分の頭で考える必要がないですよね。はい、思考停止です。


つまり、この従順さを是とする文化・環境が、人々を思考停止に陥れているように私は思っていますし、丹波市役所も例外ではなく、この従順マインドが蔓延る「大企業病」に冒されています。


この大企業病に冒されると厄介なことが多いです。


「従順」な状態は思考停止しているので、工夫をこらしてより良いものを作ろうという働きかけが起きません。旧態依然とした時代遅れのシステムを維持するので精一杯です。


さらに恐ろしいことに、従順な態度は時として善悪の判断すらできなくなります。「言われたからやっただけ」。それが例え非人道的な結果をもたらそうとも、閉鎖的な空間で権威に従順な人はやっちまうという歴史的事実と実験結果も出ています。(詳細は「アイヒマン」「ミルグラム実験」でググってみてください。従順に何百万人も殺害した歴史的事実がありますから。何百万人と言うと全丹波市民のざっと百倍、それだけの人たちを従順に・・ですよ)


さらにさらに、従順マインドが蔓延る組織は鬱病の温床です。よく「マジメな人ほど鬱になる」という話を聞きますが、それは若干違います。「マジメ」じゃなくて「従順」です。「従順な人ほど鬱になる」のです。生来人間は従順に従うのには限界があって、支配から自由を勝ち取り、自立的に生きたい生き物なのに、その限界を超えてまで従順で自己決定もできず人間としての尊厳を感じられないとそりゃ鬱にもなりますって。丹波市役所に休職者が多いのはなぜか、その原因の一端は垣間見られた気がしました。


「従順」とは本当に恐ろしいマインドだと思います。


人や、人が作った「ルール」や「常識」に従順になる態度は、一見「良い人」に見えるかもしれませんが、自ら創造するクリエイティブさを失い、人や組織の成長を阻害し、自分や相手の気持ちに応えられなくもなります。そしてそういう人の集合体である組織はゆっくりと、でも着実に壊死していき、死に体となるのが世の常です。


では丹波市役所の内情について、ちょっとまた別の出来事から考えてみましょう。


昨年、丹波市役所の中途採用試験を受けた友人がいるんですが、その彼曰く、


「面接では『公務員はやっていいことが決まっています。まずは型にハマることを徹底し、公務員とは何かを自分に叩き込みます。協調性はありますか?信頼を得られますか?枠の中で自分の個性を殺してできますか?意見を主張せずに前例踏襲できますか?ほんとにできますか?』とかなり追い詰められた。」


とのことでした。毎回毎回がこういう面接だとは思わないですが(思いたくもない)、採用時点でこんな様子じゃ、基本的には組織に従順な前例踏襲主義の人が採用されやすいんでしょう。


そしてもし自立的な生き方をしている少数派の人が採用されたとしても、こんなにも自分を押し殺していないといけない空気の中での仕事はもう懲り懲り、と、すでに丹波市役所を辞めて独立しているのかもしれません。そういう自立的な人は公務員を辞めても食っていきやすいでしょうしね。


つまり、まず人選において従順な人を選抜しようとしているし、自立的な少数派の人が採用されてもその後個性を殺さなきゃならない雰囲気に嫌気がして退職しやすい職場ってことでしょうかね。



⑶―⑤大企業病を招くホメオスタシスという本能

「せやかて仕事やねんからさっさと条例改正しとけよ!」という意見も理解できます。おっしゃる通り!


ただ、人間ってホメオスタシス(恒常性)という、何も変えずに今の状態を維持してラクしてたい、という本能があって、それがジャマしてしまうんですよね。


何か新しいことに取り組むことは実は脳にとってかなり負荷が大きい作業で、何も変えずに今の状態を維持した方が当然ラクなわけです。その結果、コンフォートゾーン(=快適で居心地の良い状態)に留まろうとするというホメオスタシスが働いてしまうんです。


だから言われた通りに前例踏襲なルーチンワークをするのは大丈夫なんだけど、例えば条例改正という変化を起こすのはしんどく感じちゃう。


とは言え、やらなきゃならない時はやらなきゃならんのですよ(笑)だけど一方で「ラクしたい」という本能の存在は無視できませんし、本能だからある意味仕方がないとも言えます。


だからこの問題を考えるにあたっては、個人を責めるのは得策じゃないと思うんです。その担当者が悪いというのではなく、エラーを出しちゃうその担当者を含む全体のシステムが機能していないことがよくないと考えるべきかと。


なのでその全体のシステムを変えなきゃ。大企業病は病気ですからね。その病気を治すために必要なオペは、職員に根性論で気合いを入れさせることではなく、全体のシステムを変えること。


⑶―⑥人間は環境の生き物だから、環境≒システムを変えよう!

「人は環境の生き物」とよく言うように、人が成長するもしないも、その環境から影響されることが多々あります。


この「環境」はニアリーイコールで「システム」に置き換えることができます。人は「環境」≒「システム」に左右される生き物です。だから組織マネジメントを行う際は、担当者自身を根性論で変えようとするのではなく、その担当者を含む全体の「システム」を改良することに着手する方が合理的だということです。


だって直接的に人を変えようとしても、実際そんな簡単に人って変わらないでしょ?😅人はそう簡単に変えられないけど、システムは変えられますよね。そしてそのシステムが変わるからこそ、人が変わる可能性が高まるというわけです。


そしてそのシステムを構築する際には、人間の本能を上手に活用することが持続可能性を高めます。


先ほど、できることならコンフォートゾーンに留まりたいというホメオスタシスという本能があるという話をしました。そして新しい取り組みをしようとしない職員を責めても仕方がない、だってそれ本能だから、という話もしました。


実はそのコンフォートゾーンから抜け出す人選方法と日々の関わりがあるのです。しかもそれもまた本能なので、それらの本能を上手に活用すれば、丹波市役所の闇を減らしていくことができるんじゃないかと私は考えています。


⑶―⑦システム❶コンフォートゾーンから抜け出すだけの「動機」があるか(採用、異動)

世の中にはホメオスタシスに打ち勝って、「自分でこういう世界を創りたい!」と考えてコンフォートゾーンから抜け出し活発に動く人がおります。


多くの場合、そのような人にはそれだけの「動機」があります。


この「動機」は極めて大事なんですが、世間ではよく誤解されているので、まずその点について少し触れておきます。


「動機」は英語で言うとモチベーション。よく、「モチベーションが上がらない」だとか「モチベーションが下がった」という言葉を耳にしますが、モチベーション(=動機)ってそんな簡単に上がり下がりするもんじゃないんです。恐らくそれは「やる気」と勘違いされていますね。


「動機」というのは「ある行動を起こすための内発的直接的な原因、心理的なきっかけ」のことです。


例えば私は子育て支援に取り組みたいと考えて実践してきているわけですが、私にはそれだけの動機があるからです。


私は2011年に鬱になって半年ほど仕事ができなかった時期がありました。その鬱状態からいろんな人の助けを得ながらなんとか復活していく中で、鬱と子育てが大きく関係していることを知りました。将来その子が鬱になりやすい子育てもあれば、鬱になりにくい子育てもあるんです。


私は自分が鬱になったことでその辛さを体験的に理解できたので、私と同じように鬱で苦しむ人を減らしていきたいと思い、後述する精神科医の明橋先生の門戸を叩いて、自己肯定感を高めて将来鬱になりにくい子育て方法を学びました。そして我が子はもちろんのこと、NPOを立ち上げてよその子の子育てもサポートするようになりました。


なぜ我が子以外のことまで支援するかと言うと、


「自分自身が鬱になり、復活していく中で鬱と子育てが大きく関係していることが理解でき、同じように苦しむ人を減らしたい」


という動機があるから。ただそれだけのことです。


このような動機がある場合はコンフォートゾーンに居座ろうとはしません。私はNPOの活動に留まらず、市議選に出て全市的に子育て支援に取り組もうとしました。


皆さんある程度ご存知だとは思うんですけど、選挙っていろいろたいへんなんですよ(笑) でも動機があってコンフォートゾーンに留まる気がさらさらないから実行できてしまうんです。


丹波市役所の大企業病を治療するためには、従順マインドから脱却して自分の頭で考えコンフォートゾーンから抜け出す職員を増やすことが必要だと考えているので、この「動機」を持った職員の適正配置(人事異動、残留)は是が非でもやっていただきたいです。


と・こ・ろ・が

今の丹波市役所の異動・残留に関しては、この「動機」が問われてないようなんですよね。


当局に資料請求したところ、「異動希望申告書」には異動を希望する場合は第1希望から第3希望まで申請ができ、もちろん残留の希望も出せます。が、その申請に際して「理由」は問われても「動機」が問われていないんです。


この「理由」と「動機」って似て非なるものです。


「志望理由」という表現は「なぜその部署に異動・残留したいのかの根拠・目的」を意味していて、例えば


・自宅から近い職場が望ましいから異動を希望します

・今の職場の雰囲気が良いから残留を希望します


のように、「理由」は「普遍的で、誰が見てもそうなる根拠」です。


それに対して、「志望動機」という表現は「なぜその部署に異動・残留したいのかの直接的な原因、心理的なきっかけ(その仕事へと動機づけるもの)」を意味していて、例えば


・息子が地域の人たちとの関わりの中で成長させてもらったことに感謝の念があるから、引き続き市民活動課に残留を希望します。

・父親の介護をしたことがキッカケで福祉の重要性に気いたので、福祉部へ異動し、丹波市の介護をサポートする職を希望します。


のように、「動機」は「個人の内的なキッカケ」です。


動機はその人の行動の原点・原動力ですから、動機があればやる気も起きます。人が健やかに力を発揮できるのは、この内なる動機に行動を伴わせることができた時です。


丹波市役所は異動・残留に関して、「理由」ではなくぜひこの「動機」を問い、その動機と仕事が結びつくような人事をしていただきたいです。


もちろん採用時も同じです。何かしら動機を持ってコンフォートゾーンを抜けていく活動のできる人を採用した方が、市民サービスレベルが上がっていくと思います。間違っても


「公務員はやっていいことが決まっています。まずは型にハマることを徹底し、公務員とは何かを自分に叩き込みます。協調性はありますか?信頼を得られますか?枠の中で自分の個性を殺してできますか?意見を主張せずに前例踏襲できますか?ほんとにできますか?」


という考えに染められる人ではなく。


それと、「動機」が不純な場合は要注意。不純な動機とは、そもそもの動機がないのに動機があるように見せかけるから純粋でなくなっている状態でしょう。


「安定しているから」という理由はあっても動機はない。そこに無理矢理「丹波市の人の温もりを感じたから」と添えると、不純な動機となるわけです。


それだったら、


「動機はありません。安定しているという理由からです」


とストレートに答えてくれた方が潔いし、その方が信用できそうな気がしますね。


動機がないとダメなわけでもないですからね。あった方が自立的に働けるだろうというだけで。私だって動機のない仕事だってやります。やらなきゃならないことは。


だけど動機がある仕事の方が熱が入るのは確かなので、丹波市役所はその人間の本能をもっと活用すればいいと思うわけです。



⑶―⑧システム❷コンフォートゾーンから抜け出すための「自立のメカニズム」(日々の関わり)

さて、私は普段から「自立が大事だ」と口すっぱく言うてるわけですが、「自立」と言うと何やから険しい道のりをイメージされるかもしれません。私の過去を振り返ってみても途中で鬱にもなったし、確かに険しかったです😅


でもそれは「自立のメカニズム」をよく理解していなかったからの回り道だったとも思います。じゃないと自立のためには皆一度鬱になってもらおう、なんていう乱暴な話になってしまいますからね、何かしらスムーズに自立する道があると考えています。


その自立への道を歩むために大切なのが、「人は依存と自立を行き来しながら成長する」という「自立のメカニズム」だと思っています。


これは精神科医の明橋大二先生から子育てに関して学んだ概念です。


人生はまず母親への依存からスタートします。おぎゃーと生まれてきて、まずは母親からの母乳や愛情を受けて安心感を得ます。ただ、その安心は裏を返すと依存状態。依存していると不自由ですから、自由を求めて自立しようとします。人はこのコンフォートゾーンから抜け出して挑戦している時にいろんなスキルが身に付きます。しかし自立状態は頼る者がいないので不安でもあります。だから何かトラブルが起こるとすぐに親の元に戻って甘え、安心します。しかしその安心は依存状態でもありますから、自由を求めて・・(以下繰り返し)。


こうして依存と自立を繰り返しながら、人の心は育まれていくと言われています。


そこでの親の関わりで留意すべき点は、


・甘えを求めている時には気持ちを受け止めてあげること。決してネグレクトをしたり、親の主観で「もっと頑張れ!」などと押し付けたりしない。

・自立したがっている時は見守る。コンフォートゾーンから抜け出して人が成長するタイミングなので、親の主観で「もっとこうした方がいい」と過干渉になってやる気を削いだり、「それはママがやってあげる」と過保護になって甘やかしたりしない。


なんですが、これって子育てだけじゃなくて大人になってからの関わりにも言えることだと思いません?例えばこう書き換えてみると、


・しんどい思いをしているならばその人の気持ちを受け止めてあげる。決して無視したり、自分の主観を押し付けたりしない。

・自立したがっている人に対しては自分の考え(枠)を押し付けて過干渉、過保護にならない。コンフォートゾーンから抜け出して成長するタイミングなので、見守るのみ。


ね、大人の世界でも当てはまるでしょ。さすがに大人になるとママに甘えるのは控えますが😅、いざとなったら気持ちを受け止めてくれ、自分が何かに挑戦しようとするとそれを黙って見守ってくれる存在って、自立的に生きるためには必要不可欠だと思うんです。


私の場合、その存在は妻かな。


やっぱり会社を経営したり今回の選挙のように政治家になろうと出馬したりすると、周囲からヤイヤイ言われることもあるんです。正面切って文句言うてくれるならまだしも、陰で悪口言われることが多いんです。もうそんなのに慣れてきたとは言え、でもやっぱりストレスなんですよね。そういう時には妻に愚痴をこぼします。で、気持ちを受け止めてもらって心機一転。また気持ち新たに挑戦的な気持ちで仕事に向かいます。


また今回の市議選に出馬する際も、妻から止められることは一切ありませんでした。「自分がそうしたいんやったらしたら?」くらいのスタンスです。過保護・過干渉な「嫁ブロック」が一切ないので、自分の人生を自分の意思で生きられています。


もちろん私だって「旦那ブロック」はしません。彼女のやりたいことが最大限叶うよう、育児や家事の分担をして彼女の時間を作っています。彼女の気持ちを受け止められているかは、どうだろう?🤔 二年前に産業カウンセラー養成講座を修了したこともあって一般的な人より「聴く」ためのマインドやスキルはあると思いますが、妻に対しては聴くより聴いてもらっている機会の方が多いだろうな。どうもありがとう。


そうしてお互いが自由に自分の意思で生きられるよう計らっているので、我々は自立的なパートナーだと思いますし、我が子に対してもそういう自立を促す関わりをしています。


そう考えると、「自立」ってそんなに厳しいイメージはしなくないですか?本人に何かあったら周囲の人が気持ちを受け止めて、その気になってコンフォートゾーンから抜け出していく時はその行動を見守る。これが「自立のメカニズム」です。


意外かもしれませんが、コンフォートゾーンから抜け出して自立に向かうためには厳しく叱咤するのではなく、必要な時に十分に気持ちを受け止めてもらえる存在があること、その環境が必要なんです。


逆にね、厳しく接して無理矢理自立させようとしても、受け止めてもらえる存在がないと何かトラブルが起きた時に他責したり過度に自責したりして、心が折れやすくなるんですよ。だから全然物事が続かなくて、結局自立できないんです。


そう考えると「条例改正しろ!」と叱咤してもうまくいかなさそうでしょ?


システムを理解できていないと、人生辛いことになっちゃいます。



⑶―⑨システム❸「ボトムアップ」の「トップダウン」(組織マネジメント)

「自立のメカニズム」に関して、私の場合は妻の存在が私の自立を支えてくれているという話をしましたが、丹波市役所でそのような存在は誰になるのでしょう?


やはり、一番影響があるのは組織のトップである林市長でしょう(教育委員会なら岸田教育長ですね)。


まずはトップが率先して


・しんどい思いをしているならばその人の気持ちを受け止めてあげる。決して無視したり、自分の主観を押し付けたりしない。

・自立したがっている人に対しては自分の考え(枠)を押し付けて過干渉、過保護にならない。コンフォートゾーンから抜け出して成長するタイミングなので、見守るのみ。

この関わりをできるかどうか。


役所は学校と違って教育機関ではないから人材育成ばかりに構ってられないと思いますし、私が申しているのは理想に近く、これを現実の職場でどれだけ取り入れられるかは未知数です。


ただ、そのような態度や姿勢は大切だと思いますし、私は林市長はそれをやってくださるだけの器のある人だと思っています。なんか、親分肌でどっしりと受け止めてくれそうじゃないですか?🤗


市長がそういう態度で、部長以下管理職が気持ちを受け止めてもらえたり、自己主張を認めてもらえたりする成功体験を得られたならば、きっと彼ら彼女らは自立的に成長します。


そこで成長実感が得られたならば、美味しいラーメン屋を見つけた時のように、自身の成長のみならず自分の部下たちにも同じよう成長してもらいたくて「自立のメカニズム」を活用したマネジメントに変化していくのではないでしょうか。


部下の声を聞いて受け止め、主体的・自立的な動きを導く組織運営を「ボトムアップ」と言いますが、その「ボトムアップ」を林市長から「トップダウン」で自然と全体に落ちていくようにするのが理想的なマネジメントなんじゃないかと私は考えています。


「公務員はやっていいことが決まっています。まずは型にハマることを徹底し、公務員とは何かを自分に叩き込みます。協調性はありますか?信頼を得られますか?枠の中で自分の個性を殺してできますか?意見を主張せずに前例踏襲できますか?ほんとにできますか?」なんて問い詰める文化を駆逐して、「ボトムアップ」で自由闊達に議論できる場にしましょう。


丹波市役所に採用された職員の中には、自分で考えて行動したくて、もうすでに公務員を辞めて別の環境に移った人がいるのかもしれません。しかし本来であればそういう職員こそ丹波市役所に残っていただきたい存在であるべきでしょう。


林市長はぜひ職員一人ひとりの尊厳を大切にし、より自立的に働ける全体のシステム作りに注力していただきたいと願っています。もちろん私ができることは協力しますし。それができれば結果的に市民サービスは向上すると思っています。



⑷終わりに

長くなりましたが、以上が議案第126号「丹波市立丹波悠遊の森条例の一部を改正する条例の制定について」と第128号の「丹波市立丹波悠遊の森に係る指定管理者の指定について」の問題点と、私が考える問題の本質です。


ここまでに2万文字近く使いましたが、要約すると、


丹波市役所に「従順マインド」が蔓延っていることがこの問題の本質で、それを改善していくカギは「動機」や「自立のメカニズム」という人間の本能を上手に活かした人事システム作りと林市長の在り方になるだろう


っていう約100文字です😆


表面的に見たら、スケジュール管理に問題があるね、コミュニケーション不足だったね、っていうことだけで終わるんでしょうけど、こうやって関係者からヒアリングして問題の本質(従順マインドが蔓延る組織文化)まで考えてそこを対処していかないと、結局また同じような問題が表出してきます。そうすると無限にモグラ叩きのように出てくる問題をその都度対処療法で叩いていくことになるんですよね。


それは疲れます。


だから、何か問題が起きた時はその問題の本質に迫ろうとするのが私のやり方。実際にこの問題の本質の抜き方で合っているかどうかわかりませんが、でもこうやって自分の頭で考えて問題解決に挑む姿勢はこれからも続けていこうと思っています。


あ、ちなみに、私が丹波市役所の人事についてなんとかしたいと動く動機について語っていませんでしたね。


これも子育て支援と同根で、鬱の経験です。依存していたんですよ、当時は。そしてそのどん底から自立的に生きられるように生き方を変えて、今では人の尊厳や豊かさを感じられるようになりました。


だから丹波市役所の職員の皆さんには、従順に鬱々とした日々を過ごすのではなく、自分の頭で考えて自立的に生きて尊厳や豊かさを感じていただきたいのです。これからあの手この手を使ってトライします。今月の一般質問でもそんな話をします。


そんななかなか前途多難な丹波市役所ですが、ちょっとした望みもありました。


健康福祉部障がい福祉課の管理職と話をしていると、この自己決定や自立の重要性に造詣が深かったんです。


知的・精神的障がい者は自己決定権を行使する主体として社会的に認められていなかった歴史があり、今でもその問題が残っているからか、この自己決定こそが人間が尊厳を感じながら自立的に生きる一丁目一番地であることをよく理解されておられました。


丹波市役所全体的に暗い中にも、ピカーンと光るスポットライトが確かにあったし、きっと他にもあるはず。そんな人たちを手がかり足がかりにして、なんとか全体を明るく照らせるように策を練りたいと考えています。


自分で考えて行動し、日々の仕事を通して少しでも自立に近づいていく。これって職員としての前に人間の営みとして本当に大事なことだと思うので、丹波市役所がそういう職場になればいいと思うし、私はそうやって自立的に生きたいという意思を持った職員を全力で応援します。

記事一覧