前川進介の政治日記

政策提案 2021.9.5

市民の権利を尊重するルールの制定、施行を!(2021年9月議会 一般質問)

1.「春日レジャープール利用の注意事項」から考える、人権に配慮したルールの制定、施行

⑴レジャープールのチラシにある注意事項が配慮を欠いている


 「春日レジャープール」のチラシ(別添資料①)の裏面にはプール利用時の注意事項が並べられており、施設への持ち込み禁止の項目に

・水中メガネ
・メガネ

とありました。

春日レジャープールのチラシ裏面



 私はこれは目が悪い市民に対して合理性を欠く差別だと感じたので、担当課であるまちづくり部施設管理課に電話で確認を取ると、

・水中メガネについては、競技用の小さい水中メガネはOKで、レジャー用の大きい水中メガネはNG
・メガネはプール内に落ちないよう、受付で落下防止バンドを渡している

というルールで実際は運用されているようで、チラシにはその実態が反映されておらず、現実より厳しいルールが書いてあったようです。



 まず実態を反映していないチラシを市民に配布することは不適切ですし、実際はメガネがOKにも関わらず正当な理由もなくチラシにメガネを排除するような表記を認めることは、やはりメガネをかけている人への配慮を欠いた行為だと感じます。

 また、大きいレジャー用の水中メガネがNGな理由を尋ねると、「ガラスが割れた時に足を切る恐れがあるから」とのこと。しかし今は昭和ではなく平成も過ぎて令和の時代。世の水中メガネはほとんどがプラスチック製で、仮にガラス製だとしても強化ガラスじゃないでしょうか?水中メガネが割れて足を切るような事故をそこまで懸念しなければならないのでしょうか?



 他にも、「直径100cmをこえる浮き輪、浮き具」が禁止とあります。今はコロナ禍で密を避けることが求められているので、それくらいの大きさの方が理に適っていませんか?入場者数も制限している中で、この浮き具を禁止する理由がわかりません。

 「ビート板」も持ち込み禁止とありますが、レジャープールでビート板が使えなかったら、ビート板は一体どこで活躍できるのでしょうか?



 ここは市民が使うレジャープールなのに、あまりにも禁止事項が多いし、禁止の仕方が粗雑で合理性を欠いています。これではレジャープールの利用を促すのではなく、逆にレジャープールに人を寄せ付けないような印象さえ与えそうです。実際にこの内容をFacebookに投稿すると、

 

「こんなの銭湯じゃないですか、泳いでも怒られそう。」
「そのうち、プールは観賞するものになっちゃわないか!」

 

という市民からの皮肉めいたコメントをいただきましたが、これが真っ当なリアクションだと思います。



 このチラシは指定管理業者が作成したものではありますが、事前に担当課のチェックを経て印刷、配布されているとのことですので、そのチェック時に当局として市民の権利を守るような指導ができなかったのでしょうか?



 

⑵市民の権利を最大限に行使できる、柔軟できめ細やかなルール作りを!


 これは一般論ですが、この国の最高法規は日本国憲法です。そこには個人の尊厳を最大の価値として基本的人権が謳われ、国家はその国民の人権を保証する範囲においてのみ法令を定め施行することができます。

 それは地方自治においても同じことです。独自に定める条例や規則なども、上位法である法令と同様に憲法で保証された人権を確保した範囲内でのみ制定、施行されなければなりません。

 要するに、丹波市役所や丹波市教育委員会で決めたルールも憲法で謳われている基本的人権を確保することが大前提ということです。



 その大前提があったうえで、先程の「春日レジャープール プール利用の注意事項」に表記されている禁止事項を考えてみます。

 本来であればメガネをかけていても利用できるのに、不当に排除してしまうような表記は、第14条の「平等権」

 

憲法第十四条

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。



に抵触するかもしれません。


 私は憲法学者ではなくちょっと調べただけのことですから、これは頓珍漢な解釈かもしれませんし、あまり憲法の議論の深みにハマりたくはありません(この件に関しては指定管理業者がその主体ですし)。

 ただ、私がお伝えしたかったのは、「どのようにすれば市役所が管理しやすいか?」という考え方だけではなく、「どのようにすれば市民の権利を最大限に行使できるか?」という観点も併せ持って、ルールの制定や施行にあたっていただきたいのです。



 では具体的にどうすれば良いのか?

 いろいろな考え方があろうかと思いますが、せめて一律の粗雑な線引きをするのではなく、様々な事情を考慮した柔軟できめ細やかな線引きをしていただきたいです。



 例えば水中メガネを禁止にする目的が、「メガネが割れた時に足をケガしないため」とのことならば、チラシのように水中メガネを一律禁止にするのではあまりに粗雑です。

 また「メガネが割れた時に足をケガしないため」という目的を果たしたいなら、競泳用のゴーグルはOKでレジャー用のメガネをNGとする線引きは筋違いで、

・ガラス製の水中メガネはご利用になれません

という一言で良いはずです。



 またメガネに関しても一律禁止にするのではなく、「メガネが割れた時に足をケガしないため」ということであればまずはプールサイドでの利用をOKと書くべきだと思います。

 そしてプール内への持ち込みを原則禁止とするにしても、落下防止のバンドを付けたうえで

・小学3年生以下の子どもの補助目的でプールに入る方
・水中歩行でご利用で顔に水を浸けない方

のような属性の方を例外として認める必要もあろうかと考えます。メガネが落ちて割れて足をケガするリスクは極めて低いでしょうから。



 私が言うところの事細かな線引きとはこのような対応を指します。

(ちなみに、落下防止バンドがついているガラス製の水中メガネでの入水はNGで、メガネは落下防止のバンドをつけているなら入水OKというルールは、「メガネが割れた時に足をケガしないため」という意図において整合性が取れないような?)



 「一律禁止」は、管理する側からすると非常にラクです。しかしその弊害として差別的な扱いが生まれて市民の権利を奪っている、大袈裟に言うともしかしたら憲法に反しているかもしれないという認識をぜひとも持っていただき、市民が権利を最大限に行使できるよう、柔軟なルールで運用していただけないでしょうか?

 


 

⑶時代の流れで価値基準は変わるから、行政は前例踏襲せずに令和の人権問題を考えるべき


 では同様に、丹波市内に存在するいくつかの既存のルール、慣習について、市民の人権が侵害されていないか質問します。

①プライバシー権とPTA名簿

 プライバシー権とは、私生活上の事柄をみだりに公開されない法的な権利のことです。

 先日あった子育て支援課の園児保護者家庭の所得が推察される個人情報漏洩などはもってのほかですが、それとは種類の異なるプライバシーの侵害もあります。昔は大きな問題にならなかったかもしれないけれど、だからこそ、何気なく、悪気もなく、慣例的に行われている侵害です。



 例えば、PTAの会員名簿。

 PTAの役員を決める際に、児童・生徒の名前の他に両親の名前も掲載されているリストを各家庭に配られるPTAが多いのではないでしょうか?

 学校側からすると、昔からよくある見慣れたリストだと思いますが、子どもの家庭の状況までを知られたくないと考える親もいます。

 例えば離婚したことを知られたくない母子家庭。父親の欄が空欄になっていることが校区内に知れ渡れば、否応なしに離婚がバレてしまいます。これはその親子のプライバシー権の侵害だと憤慨される市民がおられました。

 これについてはすでに対応されている学校(PTA)もあるようです。例えば、母子家庭、父子家庭以外に、役員を経験されていて選任候補外となった親御さんの欄も空欄にして、シングルであることをカモフラージュするなどの対応を取っているケースもあるそうです。また最初から両親ではなく家庭を代表して1名の保護者名のみを載せることにするのも一つの手だと思います。
 
 
 
 しかし、学校のプライバシー権に関してはまだまだ十分に意識が醸成されていないようで、ある保護者からは「子ども園では徹底して個人情報保護していたのに、小学になってから急に晒される。」と、教育委員会管轄ではプライバシーの意識が低いという声も聞きました。

 特に田舎と違ってプライバシーに敏感な都市部からUIターンしてきた保護者にとっては、田舎特有のプライバシーの低さに辟易しているという声も聞きますので、これは移住施策にも影響してくる事案です。

 実際、東京から移住された女性が先日丹波市役所でマイナンバーカードの電子証明書を更新する際のこと、職員が背後に回って暗証番号やパスワードを覗き込みながら対応したようで、彼女は不快な思いをされたようです。もしかしたら地元のおじいちゃん・おばあちゃんなら通用する対応だったのかもしれませんが(通用しないかもしれない)、不適切なように思います。



 このプライバシーに関しては都会と田舎の感覚の違いとも言えますが、私はその違いがあること自体には問題を感じていません。私自身、私のみならず家族の情報もSNSで公開するほどプライバシー権には無頓着です。ただ、自分のその感覚とはまるで違う感覚の人がいて、そのような人の気持ちに配慮しないとすれば、そこから問題が生じるのだろうと考えています。

 つまり、いつまでも自分の主観を頼りに判断していたら多様性を認められない排他的で時代遅れのコミュニティになってしまい、それがプライバシー権の侵害という形になって移住施策にも悪影響を及ぼしてくるだろうという話です。

 それを防ぐには、主観と客観を切り離して考える学びが必要です。だからこそ、このPTAのプライバシー権に関しては、教育の要である丹波市教育委員会が率先して啓発を行ってもよいのではないでしょうか?ただ単に「プライバシーを守りましょう」と言うだけではなく、主観と客観を切り分ける手法までを職員や市民に伝える必要を感じています。

(こういったプライバシー権を守る対応は、各学校の状況に応じて異なる対応で構わないと考えますし、利便性との兼ね合いもあって実際にどこまで守れるか未知数であることは理解しています)



 

②自己決定権と中学生の髪型


 自己決定権とは自分のことを自分で決められる権利です。我々日本国民は公権力に干渉されることなく、人生における自己決定ができるよう保証されています。(もちろん他人に損害を及ぼさない範囲での決定です)

 例えば我々は自分の髪型を決める権利を持っています。しかしある中学校の入学説明会での配布資料には、

 

「清潔で学校生活・学習に支障をきたさない髪型とし、前髪は目にかからないようにします。」
「極端に長短が違うような変則的な髪型は禁止します」

 

と書いてあり、教員から口頭で「過去に生徒がツーブロックにしてきたことがあったので、指導して直させました」という説明があったとのことです。



 制服は脱げば済みますが、髪型はそうはいかず、学校外でも学校のルールに縛られます。過去の判例を見る限りでは、髪型くらいでは程度が軽いからか、自己決定権に抵触しないようにも思いますが、他にも二十一条の「表現の自由」に触れるかもしれませんし、時代の流れでその判断基準が変わってくるかもしれません。
(そもそも校則には法的根拠がないから守らなくても罰はないという話もありますが・・)



 いずれにせよ、髪型を規制する校則は学校側の校則を定める裁量権と、それによって制約される生徒の人権との、二つの権利が衝突する場面です。だからこそお互いが納得のいくように対話を重ね、着地点を見つけるべきだと私は考えます。

 以前であれば「ツーブロック」は変則的だったかもしれませんが、今となっては社会的に認められた「普通」の髪型です。そんな市民権を得た「ツーブロック」を話し合いもなしに禁止にするなら、人権を差し置いても裁量の範囲で禁止にした合理的な理由を市民に説明する責任はあると考えます。

 また、山南中学校はOKだけど和田中学校はNGという、市内の中学校でも判断が割れているようです。たまたま和田中学校区内に住んでいるからツーブロックができない。加古川を超えたあっち側に住んでさえいれば・・・、という、住居による不平等が起きているとも考えられます。

 その不満感を解消するだけの合理的な理由もお聞かせいただきたいですし、やはりその禁止の理由は生徒や保護者にも伝えるようにし、お互いに対話を重ねていく中で社会全体で人権意識を成熟させる一つの機会にされてはいかがでしょうか?




 

③「幸福追求権」は時代とともに生まれてくる「新しい人権」


 これらの「プライバシー権」や「自己決定権」は憲法第十三条の「幸福追求権」に含まれると考えられていますが、昔からあったわけではありません。時代の流れによって生まれた「新しい人権」です。

 プライバシー権は、情報化社会の中でメディアによる暴露・公開から個人の平穏な私生活を守るために生まれた権利です。

 特に今では個人名をネット検索するとあっという間にその人に関する情報が得られる時代になりました。一方で、世の中には、自分の情報を知られたくないという思いが人一倍強い人もおられるわけですから、そういう人に対する配慮が必要な時代になったとも言えます。



 また自己決定権が生まれた背景にも、時代の流れが関係しています。自己決定は幸福感に繋がるという研究結果も出ているように、自分で決めて生きることは人生の豊かさに直結します。物質的に豊かになった現代社会において心の豊かさを求める国民が増えてきたことは、この「自己決定権」を後押ししたでしょう。

 また良くも悪くも「共同体の時代」から「個の時代」に変遷してきた中で、多様な選択肢から自分で選んで決める機会が圧倒的に増えたことも、「自己決定権」が重要視されてきた要因だと考えられます。



 このように、日本国民の権利、つまり人権は、時代とともにアップデートされてきています。それに対して行政が施行するルールが前例踏襲では、いずれ憲法違反になってしまう可能性があるのです。だから、前例踏襲をベースにせず、時代に合ったルールを考え、市民の権利を最大限に尊重する運用が求められていると考えます。




 

2. 少年少女スポーツ活動の過剰な制限から考える、子どもの人権保護

⑴コロナ禍の少年少女のスポーツ活動に行き過ぎた制限をかけていた

 6月末に、ある少年野球チームに所属しているお子さんの親御さんから苦情が入りました。それは丹波市が少年少女のスポーツ活動に対して制限している内容が、緊急事態宣言が出ている他市と比べても厳しすぎるという訴えでした。
 

【平日】
・活動日:週4日以内
・活動時間:1日2時間程度の活動

【土日】
・活動日:土日いずれか1日
・活動時間:1日3時間程度の活動

 

 当時の丹波市の規制はこの内容だったのですが、実はこの規制は兵庫県教育委員会が公立学校の部活動において、部活動一辺倒にならないように時間の制限を設けましょう、という考えのもと作った「いきいき運動部活動」というガイドラインで示された規制です。またこれはコロナパンデミックが始まる以前の平成30年9月に出されたルールですから、コロナとは全く関係のない縛りです。

 部活動一辺倒にせずプライベートな時間を確保できるようにと作られたルールだったわけですが、それをなぜか子どもたちのプライベートな活動に当てはめプライベートを制限するという、全くもって本末転倒なことが丹波市では起きており、そのことを兵庫県教委に問い合わせると困惑気味でした。



 この件については私から当局に改善を促したところ、迅速に対応していただき、7/1には制限が解かれました。少年野球の親御さんたちは非常に喜んでおられ、この件の枝葉の部分まではこれ以上言及するつもりはありません。

 ただ今回のこの問題の本質を理解し、一般化して整理しておかないと、また同様の事案が起こる気がしていますので、当局からすると「終わった話やのにとくどい」と感じるかもしれませんが、一つの具体例として挙げておきます。


 

⑵これらの問題の本質は、職員の人権意識の低さではないか?


 私が考えるこの問題の本質は、職員の人権意識の低さです。コロナ禍とは言え、民間団体に国や県が出している基準よりも遥かに強く、また筋違いな制限を1年間もかけ続けて市民の自由を奪っていたことに、違和感すらなかったのかという疑念がどうしても私の中で解消されずに残っているのです。

「え、こんなんやってしもて許されるん?」という違和感があったのか。

 先のレジャープールや校則の話でもそうですが、一律で制限をかけると管理はラクですが、一方で制限を受ける側である市民の権利を侵害するという側面があるわけです。このスポーツ活動の規制において、その人権を侵害しているかもしれない、という考えが頭のどこかにあってのことだったのか、それともそのようなことを考えることもなく制限をかけていたのか、まずそれを知りたいです。



 また、この規制は「少年少女のスポーツ活動」についてかけられたものですが、当時、子どもより重症化リスクの高い大人のスポーツ活動については同様、またはそれ以上の規制がかけられていませんでした。コロナ対応と言いながらのチグハグさがそこにありますし、これは子どもを不当に差別した取り組みとも取られかねません(もちろん差別する意思は皆無だったと思っていますが、その意思の有無に関係なく差別は起こるものです)。



 そして今回の件で残念だったのが、その差別的な扱いを受けた対象が、社会的に弱い立場にある子どもたちだったことです。子どもは社会の中では弱い立場で、自らの声を上げることが困難ですから、周囲の環境や社会の中にあるさまざまな矛盾の影響を直接的に受けやすい存在です。今回でも、声をあげたのは当事者である子どもではなく、それを見るに見かねた親御さんたちでした。



 

⑶「子どもの権利に関する総合条例」を制定しないか


 そこで、我々市民の中でも特に立場の弱い存在である子どもの人権を徹底的に守る丹波市になるために、「子どもの権利に関する総合条例」を制定してはいかがでしょうか?

 令和3年4月現在、全国で50の地方自治体が「子どもの権利に関する総合条例」を制定しています。これは、平成元年に国連で採択された「児童の権利に関する条約」がベースになっている条例です。

 同条約は、18歳未満の児童の権利の尊重及び確保の観点から、大きく分けて4つの子どもの権利、「生きる権利」、「育つ権利」、「守られる権利」及び「参加する権利」を定めています。

 この条約の理念を踏まえ、子どもの権利を保障し、それに関する施策を推進することを主たる目的とした条例が全国各地で制定されてきているのです。



 例えば「亀岡市子どもの権利条例」に掲げられている基本理念は、
 
 

(基本理念)
第3条 子どもの権利の保障は、次の各号に掲げる事項を基本理念として推進されなければならない。
(1) 子どもは権利の主体であり、その年齢及び発達に応じて自らその権利を行使できること。
(2) 子どもは、子どもであることをもって不当な取扱いを受けないこと。
(3) 子どもは、個人としての尊厳が重んじられ、健やかに成長するための環境が確保されること。
(4) 子どもは、自身にとって最善の利益が考慮され、社会全体で育まれること。
(5) 社会における制度又は慣行において、子どもの権利が尊重されること。
(6) 子どもの権利の保障は社会全体の責務であり、実効性ある具体的な取組によって推進されること。
 

引用:亀岡市子どもの権利条例

 
 と、子どもにも大人同様の人権があり、子どもは社会全体でその人権を確保されながら育まれるべきであることが記載されています。



 

⑷子どもの人権のチェック機関である「子どもの権利擁護委員会(仮)」を設置しないか


 また、「甲府市子ども未来応援条例」には、「甲府市子どもの権利擁護委員」を設置し、

 

(子どもの権利擁護委員の設置)
第22条 市は、子どもの権利の侵害について、速やかに救済することを目的に、市長の附属機関として甲府市子どもの権利擁護委員(以下「権利擁護委員」という。)を設置する。
 

引用:甲府市子ども未来応援条例

 


 子どもの相談に乗るなどして権利が侵害されていないかチェックして、必要に応じて勧告等を行い、


(権利擁護委員の職務)
第23条 権利擁護委員の職務は、次のとおりとする。
(1) 子どもの権利の侵害に関する相談に応じ、必要な助言や支援を行うこと。
(2) 子どもの権利の侵害に関する救済の申立てを受け、又は必要があるときは、自らの判断で、子どもの権利の救済及び回復に向けて調査、調整、勧告、是正要請及び意見表明を行うこと。
(3) 前号の勧告、是正要請又は意見表明(以下「勧告等」という。)を受けて採られた措置の報告を求め、その状況を確認すること。
 

引用:甲府市子ども未来応援条例

 


 その勧告等を受けた市役所や教育委員会は、その勧告を尊重して必要な措置を講ずるとあります。


(勧告等に対する措置)
第24条 市は、勧告等を受けたときは、これを尊重し、必要な措置を講ずるものとする。
 

引用:甲府市子ども未来応援条例

 


 もちろん第三者的な独立性を担保したうえで。


 

(独立性の確保と活動への協力)
第26条 市は、権利擁護委員の独立性を尊重し、その活動を支援する。
 

引用:甲府市子ども未来応援条例

 


 そして子どもの権利について、子どもにもわかるよう普及させていくのは市の仕事。

 

(子どもの権利等の普及)
第28条 市は、児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)に規定する子どもの権利及びこの条例について、子どもにもわかるよう、その普及に努めるものとする。
 

引用:甲府市子ども未来応援条例

 



 これら「子どもの権利擁護委員」関連の内容を大まかにまとめると、

①行政から独立した立場で、子どもの権利や利益が守られているか監視する
②子どもの権利の保護・促進のために必要な法制度の改善の提案や勧告を行う
③子どもや保護者などからの苦情申し立てに対応して、必要な救済を提供する
④子どもの権利に関する教育や意識啓発等を行う


の4点に絞られます。



 丹波市には「人権啓発センター」がありますが、まちづくり部の中にあって、独立した第三者的な立場にはありません。当センターからは、これまで丹波市役所や丹波市教育委員会が施行する決まりについて、人権の観点から是正したことはないと聞きました。第三者的なチェック機関がないと、本来人権を守らなければならない行政に対して日常的に是正ができないわけですから、これは仕組み上、構造上の欠陥と言えます。(構造的な問題であって、今の人権啓発センターの仕事内容に問題があるという意味では決してありません。誤解なきようお願いします。)

 コロナ禍における少年少女のスポーツ活動の制限にしろ、学校のルールにしろ、学校内で起きたイジメにしろ、その対処にはやはり市役所や教育委員会とは独立した立場で子どもの人権を守る機関が必要ではないでしょうか?




 丹波市や丹波市教育委員会に対しての監視機能として、まずは丹波市議会があり、行政と議会が互いに牽制し合うからこそ、適正な地方自治運営ができていると思います。

 ただ、議会は4年に1度市民から選ばれる議員で構成する組織の性格上、恒常的に各種専門性を保障することができません。また日常的に発生する個別の事案を直接扱うべきでもないと考えます。

 そう考えた時に、日常的に発生している子どもの人権侵害から子どもたちを守るためには、甲府市で設けられた権利擁護委員のような、専門性の高い第三者によるチェック機関を設置することが求められるのではないかと考えます。



 そうして子どもの人権に関する監視機能を持たせれば、子どもに限らず、大人に対しての人権意識もが、行政の中で高まっていくのではないでしょうか?そして市役所内の人権意識が向上すれば、その恩恵は市民に届きますから、市民の人権意識も高まることと思います。



 私からすると人権、特に子どもの人権が軽視されがちな印象を持つ丹波市だから、「子どもの権利総合条例」を制定し、さらに監視機能を持つ「子どもの権利擁護委員会(仮)」を設置することが望ましいと考えています。その点についての市長の考えをお聞かせください。



 

⑸子育て支援も子どもの人権確保を目的に


 また丹波市の子育て支援についても言及します。

 予め申し上げると、市の子育て支援が子どもの人権侵害をしているという認識は全く持っていません。そうではなくて、何のために子育て支援をしているのか?という目的意識について触れておきたいのです。

 私は子育て支援こそが丹波市の将来を豊かにする一丁目一番地だと考えていますが、ただ、ただ単に子育てを支援すれ丹波市が豊かになるという短絡的な考えではありません。ただ単に子育てを支援するのではなく、子どもの権利を守るために子育てを支援すべきだと考えているのです。



 基本的に子どもの世話をする主たる存在は親です。しかしながら親が子を育てるのには非常に労力がかかりますし、ましてや昔と違って核家族化が進んだ今日では、朝から晩まで仕事か子どもの世話に追われている家庭が非常に多い状況です。

 子育て中の親は何をするにも余裕を失いがちで、そんな状況で、親が子どもの人権を100%守れるでしょうか?正直なところ、私も特に余裕がない時には待つことができず押し付ける傾向があります。そうして子どもたちに過保護・過干渉になって人権を守れていないと反省することがしばしばです。



 先にも述べた通り、子どもは社会の中では弱い立場で、自らの声を上げることが困難ですから、周囲の環境や社会の中にあるさまざまな矛盾の影響を直接的に受けやすい存在です。親に余裕がなければ、子どもの人権は侵害されがちです。

 だからこそ、まずは親を支援するのです。ただ単に子育てを支援するのではなく、我が子の人権を守れるだけの余裕ができるように、その親を支援する

 そうして人権を認められて育てられるからこそ、自分らしい自己表現ができて互いに認め合うことができる丹波市という地域に愛着を持ち、丹波市の将来をより豊かにしてくれるのだと考えます。



 ところが今の丹波市の子育て支援を見ていると、単に子育てを支援しているだけように感じます。なぜなら子どもの人権まで踏み込んだ支援が手薄だからです。確かに、まずは親御さんがラクになるような支援を行うことは必要です。しかしそれは必要であって十分とは言えません。

 あまり他市と比較するのは好きではないですが、例えば明石市は子どもの人権を守るための子育て支援を徹底しています。だから内容が濃い。支援の意味が深い。

 だから願わくは、丹波市でも子どもの人権を守るという最後のステップまで踏み込んだ子育て支援施策を打ってはどうでしょうか?



 巷では「褒めて育てる」という話も聞きますが、私の考えでは褒めて育てるのではなく、「子どもの人権を認めて関われば子どもは勝手に育つもの」だとすら感じています。(そりゃ人によるでしょうけれど)

 「愛される権利」、「守られる権利」、「自分らしく生きる権利」、「気持ちや考えを伝える権利」、「学ぶ権利」、「遊ぶ権利」、「心や体を休める権利」、「参加する権利」。こうした本来子どもが持つ様々な権利を保障しながら育てることができたなら、間違いなく将来の丹波市はより豊かになるでしょう。

 市の子育て支援において、子どもの人権を守る施策までをやりきるのか、当局の意思を問います。





⑹人権意識の高い柏原中学校生徒会の在り方を、他の学校にも


 それだけ重要視している子どもの人権ですが、その意識を高く持たれている中学校の話を聞きました。柏原中学校です。

 柏原中学校では、靴や靴下の色が白以外でも良いようにルール変更があったようですが、それは生徒が生徒会に申し入れ、生徒会が議案として取り上げ、全校生徒による生徒総会で議決したとのことです。

 自分で決定する自己決定権は、先にも述べた新しい人権です。その新しい人権を早々と取り入れておられる柏原中学校は、現代社会にマッチしており、非常に先進的だと感じました。



 先の「ツーブロック」もそうですが、全国的に見ても「ブラック校則」が見直されてきています。時代の過渡期です。

 そして、その過渡期をチャンスと捉え、柏原中学校のようにそれらの見直しを生徒自らが行うことは、社会に対する生徒の自主性、能動性を育むよい機会だと私は考えています。

 また、この能動性は主権者教育にも通ずるものがあると考えています。主権者教育と言えば学校で模擬投票するなど表面的な活動が多い印象ですが、そもそもは自らの意思を社会に反映させ、共に社会を創っていくという能動性を養うことこそが重要なはずです。

 人間は能動的に動いた結果、何かしら事態が変化したという感覚が得られると、更なる意欲が湧くものです。中学時代の「靴下の色のルールを変えた」という一見小さな成功体験は、社会への能動性を高め、憲法で定められた基本的人権の一つである「参政権」を体験的に理解することに繋がります

 私はそれこそが主権者教育だと思うし、そうして皆で社会を創っていくマインドを持つことが、自身だけでなく他者の権利をも尊重する質の高い民主主義の基盤となると考えています。



 そこで教育長に質問です。この柏原中学校のような取り組みが他にどれくらいあるのかまでは把握できていませんが、もしまだの学校があるのなら、柏原中学校のように自己決定でき、主権者教育もできる生徒会の在り方を取り入れてはいかがでしょうか?

 

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